春まだはやいある朝、上黒田村（現飯田市上郷上黒田）の街道を、北から南にあるく旅の武士があった。
身なりこそ旅の埃にまみれていたが、あごのはりよう、たくましい筋骨など、いずれ名のある豪の者と見てとれた。その武士の足が、街道ぞいの、とある百姓家のまえでとまった。
「もうし、拙者は旅のものでござるが、街道にまできこえるお嘆きのこえ、よほどのこととお見受けいたします。拙者でお役にたてることなら、なんなりとお力になりましょう」
すると、家の奥から目を泣きはらした夫婦がでてきて、
「じつはこの村の山奥に姫宮という社がございます。毎年祭の朝早く、年ごろの娘のいる家の家な棟に、白羽の矢が立ち、その家ではその娘を人身御供にさしださなければなりません。万一それを怠ったら、その年は村中の田畑が、むざんに荒らされ、収穫は粟ひとつぶも望めません。それで村の為、どんなにかわいい娘でも、ださなければならない掟となっております。それが今朝、私どもの家の棟に矢が立ったのでございます」
涙ながらの話をきいた武士は、キッと眉を上げ、
「世にも不思議な話をきくものかな。まことの神ならば、そのような無慈悲なことをなされるはずがない。察するに変怪なものの仕業にちがいない。今宵は、拙者が娘御になりかわり、人身御供となって悪ものを退治して進ぜよう」
と、たのもしくいいはなった。夫婦はむろん、村人たちも天の助けとばかりよろこび、武士をふし拝んだ。
あたりが暗くなる頃、運ばれた白木の箱に、武士は抜き身の太刀をしのばせて入った。村人はその箱をかつぎ、山奥の姫宮まで運びあげ、社の前に供えると、そそくさと村を下りていった。
昼でも暗いような杉木立のなか、きこえるのは、野底川の瀬音ばかり。しだいに夜も更け、風にゆれる梢から夜露がしずくとなってぱらぱらとおちかかる。
真夜中、山をふみ分けてなにものかが近づく怪しい気配……
武士ははっとして太刀をかまえ、箱の隙間から外をうかがうと、今にも消えそうな灯明のあかりのなか、箱を覆う大きな影。
やがて、怪物は、ウッウッウッと、笑い声とも、うなり声ともつかぬ叫びをあげると、箱に手をかけた。
その瞬間、武士は蓋をはねのけ、箱の中から五尺（一メートル五十センチ）も飛び上がり、逆手にもった太刀のつかも通れと、怪物の、喉のあたりをつらぬいた。
ギャオーッ・ゲッ・ゲッ
怪物は、怒り狂い武士に掴みかかろうとする。その手をかいくぐり、飛鳥のようなすばやさで横にはらった一閃──
ひるんだ怪物につづけさまにあびせる三の太刀、四の太刀。怪物と武士との死闘が続く……
やがて、さしもの怪物もよたよたと闇の中へ逃れさった。
血糊をはらってさすがにほっとする武士。
どれほどの刻を闘ったのか、いつしか夜明けが近づいていた。
やがて登ってきた村人は、滴っている血の跡をたどって虚空蔵山のふところ深く、岩窟の中に息絶えている大狒を発見した。
それ以後、人身御供もなくなり、村には楽しい祭りが蘇った。
この武士は名を岩見重太郎といい、のちに大阪夏の陣でかつやくした、薄田隼人正兼相だったといわれている。
北原幸男
|